Acte de résistance : les films de Straub-Huillet selon Deleuze

Yoshiyuki SATO 佐藤嘉幸と小川美登里は、2022年に亡くなったジャン=マリー・ストローブにオマージュを捧げて、2つのストローブ=ユイレ論を本サイトに公開する。佐藤はストローブ=ユイレにおける抵抗行為について論じ、小川はストローブ=ユイレとデュラスにおける声の政治について論じる。 Yoshiyuki Sato et Midori Ogawa publient sur ce site deux textes sur Straub-Huillet en hommage à Jean-Marie Straub, décédé en 2022. Sato discute de l’acte de résistance chez Straub-Huillet, et Ogawa analyse la politique de la voix dans Straub-Huillet et Duras. *** Dans L’image-temps, Deleuze donne un sens décisif aux films deLire la suite « Acte de résistance : les films de Straub-Huillet selon Deleuze »

Crítica de la escuela en el pensamiento francés post-68 (1): Entrevista con Étienne Balibar

por Jun Fujita Hirose y Yoshiyuki Sato *publié originairement à Lobo Suelto!, https://lobosuelto.com/critica-de-la-escuela-en-el-pensamiento-frances-post-68-entrevista-a-etienne-balibar/ Entrevista con Étienne Balibar realizada por Jun Fujita Hirose y Yoshiyuki Sato, a propósito de la “crítica de la escuela en el pensamiento francés post-68”. Balibar fundó, inmediatamente después del Mayo 68, el grupo de investigaciones sobre la escuela con otros althusserianosLire la suite « Crítica de la escuela en el pensamiento francés post-68 (1): Entrevista con Étienne Balibar »

Crítica de la escuela en el pensamiento francés post-68 (4): Entrevista con Jacques Rancière

por Jun Fujita Hirose y Yoshiyuki Sato Traducción del francés por Celia Tabó *publié originairement à Lobo Suelto!, https://lobosuelto.com/critica-a-la-escuela-jacques-ranciere/ Esta es una entrevista con Jacques Rancière realizada por Jun Fujita Hirose y Yoshiyuki Sato a propósito de la “crítica de la escuela en el pensamiento francés post-68”. En La leçon d’Althusser, Rancière ha criticado severamente,Lire la suite « Crítica de la escuela en el pensamiento francés post-68 (4): Entrevista con Jacques Rancière »

Critique de l’école dans la pensée française post-68 (2) : Entretien avec Anne Querrien

par Jun Fujita Hirose et Yoshiyuki Sato 以下は、廣瀬純と佐藤嘉幸が「1968年後のフランス現代思想における学校批判」をめぐって行った、アンヌ・ケリアンのインタビューである。ケリアンは1976年に、CERFI(ガタリ派の研究グループ)の雑誌『ルシェルシュ』の一冊として、L’école mutuelle, une pédagogie trop efficace ?(『相互学校、有効すぎる教育法?』)を出版し、フランス教育史における相互教育の歴史に光を当てた。本インタビューでケリアンは、相互学校の歴史やCERFIの歴史について詳細に語っている。 Voici un entretien avec Anne Querrien réalisé par Jun Fujita Hirose et Yoshiyuki Sato autour de la « critique de l’école dans la pensée française post-68 ». Querrien a publié, en 1976, L’école mutuelle, une pédagogie trop efficace ?[1] pour un numéro deLire la suite « Critique de l’école dans la pensée française post-68 (2) : Entretien avec Anne Querrien« 

「近現代の批判的分析研究」とは?

2011年に起こった福島第一原発事故をめぐっておこなわれた日仏の研究者による共同セミナーをきっかけとして生まれたのが、この「近現代の批判的分析研究」グループです。災害が含み持つ多様で複雑な利害関係を明らかにし、払拭できない不確かさや分断をさまざまな形で見せつけた災害からの教訓を引き出すためには、分野の枠を超えた専門家たち(文学・哲学・社会学・社会科学)が知恵を出し合う必要がありました。独自の論理で機能する社会的・政治的プロセスを巻き込むがゆえに、より一層複雑にみえる一連の現象を分析・理解できるのは、唯一アートや文学・哲学だけであり、私たちの学際的視点はこうした目的を果たすのにふさわしいと思えました。 その一方で、原子力政策の根幹をなす科学技術の発展をこれまで裏付けてきた動機がそもそも私たちの知から遠くかけ離れたものであることから、政策課題全体を検証する必要性も研究グループの共通理解として得られました。こうして、批判的なアプローチを核として、権力のさまざまな機能とその変化(生権力、技術権力など)、さらにはそれらが政治や政策・文化におよぼす影響を研究対象とする研究グループが発足しました。  2011年以降はより柔軟な基盤での研究協力や、他の研究ラボとの交流を中心に活動してきましたが、こうした柔軟性が負の効果をもたらしたことも確かです。研究グループ機関としての堅固な基盤がないため、予算獲得などに不利に働いたのです。事実、現在は筑波大学とパリ第8大学の一部の研究者の共同研究に限定されています。ですが、今後はより構造的な研究グループを構築し、より活動的で国際的な研究母体へと発展していきたいと考えています。 先述の批判的・学際的視点に加えて、本研究グループでは「近現代をめぐる省察」と「日仏の交差による学術的効果」を主要研究テーマとしています。実際、日本においてもフランスと同様、「近現代性modernité」は構造化に関わる重要概念です。フランスでは、フランス革命以来、近代政治を確立した一要素として今でも重視されていますし、日本でも明治以降、近代化のもたらした科学技術機構を中心に国家が確立した事実は知るとおりです。 日本とフランスのいずれにおいても、資本主義の普及や帝国・国民国家の再組織と、それによって生まれた諸々のシステム(技術・科学・環境システム)が実現した大きな変革の中で中心的な位置を占めるのが、ほかならぬこの「近現代性modernité」の概念です。多様な形態をもつがゆえに故意に曖昧でもあるこの「近現代性modernité」という概念の再検討にあたって、日本とフランスはともに特権的な場を占めています。たしかに、この問いは長い間、日本において中心的地位を占めてきたものでもあり、またフランスにおいても、(近現代擁護派の息切れに乗じてポスト・モダン理論を標榜する人々が登場するまでは、あるいは全般的な問題提起を敬遠する傾向をもつ社会科学が台頭するまでは)人文学の一部で主要テーマのひとつでした。ですが、「近現代性modernité」を再考することにより、近現代という固有の装置の中で生み出され累積していった多様な危機(クライシス)に新たな光を当てることができると私たちは考えています。  本研究の基本理念のひとつは、「近現代性modernité」の生み出した構造が抱える矛盾や衝突、分断です。「批判的」という、私たちの研究グループの名称の一部にもなっている概念の第一の意味はそこ、つまり「近現代性modernité」と「危機」がどのように、そして根源的に結びついているのかを理解することにあります。実際、「近現代性modernité」の構造がその内部に孕み持っていた不均衡を見極めることなくして、21世紀を特徴付ける危機の連鎖(経済危機、環境危機、政治危機、軍事危機など)を理解することなどできないでしょう。それはまた、常態化した例外状態であれ、危機をコントロールするための手段(監視、制御、予防など)や、人民および主体性を管理する手段(緊急あるいは希少な要請など)がどんな負荷を持つものであれ、なぜ、そしてどのようにしてこうした危機が社会の通常状態になってしまったのかを理解するための一連の問いに結びついているのです。さらに、近現代のもたらした危機の分析からは、その同じ危機がかつて内包していた解放的な要素を再評価するきっかけも生まれるでしょう。日本とフランスを交差させる意義はそこにあります。両国を比較することで、同じ政治・文化・科学政策からなる全体に根を下ろしたとはいえ、物理的に遠く離れた二つの場所それぞれでの近代化の経験の違いもまた浮き彫りになってくるのです。また、日本を例とする非西洋的な近現代性の諸形態や、近代化と西欧化の齟齬に由来する多様でオルタナティフな近代性をめぐる議論からは、一枚岩ではない多様な近現代の姿も明らかになるはずです。このように私たち研究グループでは、近現代性に固有な諸現象の分析に加えて、「近現代性modernité」に関連する想像世界(アート、文学)やユートピア/ディストピア思想、さらには「近現代性modernité」の内外から表明されたあらゆる種類のオルタナティフや異議申し立てについても分析したいと考えています。

Qui sommes-nous?

Le projet de laboratoire d’analyse critique des modernités trouve son origine dans le travail mené en commun par un certain nombre de chercheurs japonais et français à la suite de l’accident de la centrale nucléaire de Fukushima en 2011. A l’époque, il s’agissait principalement de fédérer des spécialistes de différentes disciplines (littérature, philosophie, sociologie etLire la suite « Qui sommes-nous? »

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